1815年以降のカール・ヨハン(1/E)

1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出してパリに戻り 再び帝位についたとの知らせを受け、第7次対仏大同盟に参加はしたが 軍をヨーロッパ大陸に送ることはしなかった。 ブルボン王朝が復活後にナポレオン関係者の弾圧が始まる … 続きを読む 1815年以降のカール・ヨハン(1/E)

1814年のカール・ヨハン(1/E)

休戦明けに進軍を再開し、デンマークを降伏させた。 1月14日にキール条約が結ばれて、ノルウェーはスウェーデンに割譲され、 代わりにスウェーデン領ポメラニアとリューゲン島はデンマークに割譲された。 念願の目標を達成したので … 続きを読む 1814年のカール・ヨハン(1/E)

1813年のカール・ヨハン(11/E)

ライプツィヒの戦いが終わった後で、カール・ヨハンはデンマーク侵攻の為に北上すると宣言した。 プロシアとオーストリアは同盟軍が弱体化するので反対したが、 それならスウェーデン軍と共にスウェーデン領ポメラニアに引き返して 国 … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(11/E)

アイラウの戦いでのプロシア軍

前回、カール・ヨハンが”アイラウの戦いで大失敗した部隊機動”と指摘した事について考えてみた。 1.アイラウの戦い  プロシア軍がロシア軍の増援として戦場に来た時に、弱体化したロシア軍左翼に配置するように  ロシア軍司令官 … 続きを読む アイラウの戦いでのプロシア軍

1813年のカール・ヨハン(10)

10月13日時点での部隊配置は以下の通り。 ブリュッヒャー大将は自軍の左翼にカールヨハンの北方軍を配置して一緒に進軍して欲しいと依頼したが、 カールヨハンは、その案がアイラウの戦いで大失敗した部隊機動であると指摘し、 ブ … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(10)

1813年のカール・ヨハン(9)

カール・ヨハンは北方軍をエルベ川東岸に留めて約3週間近く動かなかった。 同盟軍(特にプロシア軍)からかなり非難されたが、外交交渉をしていることもあるし、 エルベ川を渡るとナポレオンとの直接対決の危険が大きくなるので、見送 … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(9)

1813年のカール・ヨハン(8)

この2つの戦いの結果は、ナポレオンに味方したライン同盟諸国に大きな影響を与えた。 カール・ヨハンはZerbstに移動して主な国(下図下線部)にスウェーデンと同盟するように働きかけた。 1)ザクセン王国は首都ドレスデンにフ … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(8)

1813年のカール・ヨハン(7)

デネヴィッツの戦いの夕方にカール・ヨハンはネイ元帥の副官Clouet(クローエ)大佐が 負傷して捕虜になっていると聞いた。 そこで、彼にはネイ元帥付きの大佐にふさわしい敬意を持って必要な手当を行なうように 特別な命令を出 … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(7)