アイラウの戦いでのプロシア軍
前回、カール・ヨハンが”アイラウの戦いで大失敗した部隊機動”と指摘した事について考えてみた。 1.アイラウの戦い プロシア軍がロシア軍の増援として戦場に来た時に、弱体化したロシア軍左翼に配置するように ロシア軍司令官 … 続きを読む アイラウの戦いでのプロシア軍
バタイユゲーム、ナポレオン戦争、などについて書いていきます。
アイラウの戦いでのプロシア軍
前回、カール・ヨハンが”アイラウの戦いで大失敗した部隊機動”と指摘した事について考えてみた。 1.アイラウの戦い プロシア軍がロシア軍の増援として戦場に来た時に、弱体化したロシア軍左翼に配置するように ロシア軍司令官 … 続きを読む アイラウの戦いでのプロシア軍
1813年のカール・ヨハン(10)
10月13日時点での部隊配置は以下の通り。 ブリュッヒャー大将は自軍の左翼にカールヨハンの北方軍を配置して一緒に進軍して欲しいと依頼したが、 カールヨハンは、その案がアイラウの戦いで大失敗した部隊機動であると指摘し、 ブ … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(10)
1813年のカール・ヨハン(9)
カール・ヨハンは北方軍をエルベ川東岸に留めて約3週間近く動かなかった。 同盟軍(特にプロシア軍)からかなり非難されたが、外交交渉をしていることもあるし、 エルベ川を渡るとナポレオンとの直接対決の危険が大きくなるので、見送 … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(9)
1813年のカール・ヨハン(8)
この2つの戦いの結果は、ナポレオンに味方したライン同盟諸国に大きな影響を与えた。 カール・ヨハンはZerbstに移動して主な国(下図下線部)にスウェーデンと同盟するように働きかけた。 1)ザクセン王国は首都ドレスデンにフ … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(8)
1813年のカール・ヨハン(7)
デネヴィッツの戦いの夕方にカール・ヨハンはネイ元帥の副官Clouet(クローエ)大佐が 負傷して捕虜になっていると聞いた。 そこで、彼にはネイ元帥付きの大佐にふさわしい敬意を持って必要な手当を行なうように 特別な命令を出 … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(7)
1813年のカール・ヨハン(6)
8月26,27日ドレスデンの戦いの後、ナポレオンはウディーノ元帥の代りに ネイ元帥をベルリン侵攻軍の司令官に任命した。 ネイ元帥が受けた命令は以下の通り。(下図の橙色矢印) 9月4日にWittenbergを出発し、Jüt … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(6)
1813年のカール・ヨハン(5)
8月に休戦が終わり、戦役が再開した。 ナポレオンはベルリンを占領するために南からウディーノ元帥の軍70000人、 西からダブー元帥の軍団25000人を進める計画を立てていた。 ダブー元帥の軍団にはWallmoden中将の … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(5)
1813年のカール・ヨハン(4)
カール・ヨハンとモローがシュトラールズントでカール・ヨハンが置かれている 戦略的位置について議論をした内容を意訳してみた。 モロー:君の補給線は、バルト海、エルベ川、オーデル川の間にある危険なもので、 シュトラー … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(4)
1813年のカール・ヨハン(3)
休戦期間中は戦争準備に追われていたが、アメリカ合衆国から戻ってきたモロー将軍と 9年ぶりに再会した。 約1年前にフィンランドのトゥルクでカール・ヨハンとロシア皇帝が会談した際に モロー将軍を招く事で合意して使者を送った結 … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(3)
1813年のカール・ヨハン(2)
カール・ヨハンとスウェーデン軍は5月18日にシュトラールズントに到着し、 スウェーデン領ポメラニアを回復し始めた。 しかし、指揮下に入るはずのロシア軍とプロシア軍は姿が見えず、悪い知らせが届いた。 5月2日リュッツェンの … 続きを読む 1813年のカール・ヨハン(2)