ウルム戦役のベルナドット(4/E)
ベルナドットの第1軍団、ババリア軍団2万7千人は10月14にミュンヘンを占領し、 東から応援にくるロシア軍4万人を監視する事になった。 10月20日にマック中将のオーストリア軍は降伏し、ウルム戦役は終了した。 ドイツ方 … 続きを読む ウルム戦役のベルナドット(4/E)
バタイユゲーム、ナポレオン戦争、などについて書いていきます。
指揮官・人物に関するもの。
ウルム戦役のベルナドット(4/E)
ベルナドットの第1軍団、ババリア軍団2万7千人は10月14にミュンヘンを占領し、 東から応援にくるロシア軍4万人を監視する事になった。 10月20日にマック中将のオーストリア軍は降伏し、ウルム戦役は終了した。 ドイツ方 … 続きを読む ウルム戦役のベルナドット(4/E)
ウルム戦役のベルナドット(3)
歴史的な結果は、下図のようにプロシア領のアンスバッハ(Ansbach)を通過して10月9日に フランス軍主力はオーストリア軍の東側に進入した。この判断はオーストリア軍マック中将の 予想外(普通の人も同様)であり、この時 … 続きを読む ウルム戦役のベルナドット(3)
ウルム戦役のベルナドット(2)
オーストリア軍の予想を超える早さで17万8千人のフランス軍がドイツ南部に集結した。 オーストリア軍は7万2千人で戦力的に劣勢となったが、後退せずに北は ドナウ川、西はイラー川で防衛し、ロシア軍の増援7万人を待つことにし … 続きを読む ウルム戦役のベルナドット(2)
ウルム戦役のベルナドット(1)
イギリス本土への侵攻を諦めたナポレオンは、イギリス遠征軍にハノーファー駐留軍を 加えた”大陸軍”を編成し、ドイツ南部に侵攻したオーストリア軍に向かった。 9月1日にハノーファーを出発したベルナドットの軍団(第1軍団)は … 続きを読む ウルム戦役のベルナドット(1)
イギリス遠征軍から外れたベルナドット
1805年4月に第3次対仏大同盟が結成され、次の主要国がフランスへ宣戦布告した。 ・イギリス、 オーストリア、 ロシア、 ナポリ、 スウェーデン イギリス本土への侵攻を準備したナポレオンは、ブローニュに遠征軍20万 … 続きを読む イギリス遠征軍から外れたベルナドット
ハノーファー総督・駐留軍司令官のベルナドット
ベルナドットは1804年6月にモルティエ元帥の後任としてハノーファー選帝侯領の 総督・駐留軍司令官(27000人)に任命された。 司令部を市内のGartendirektorenhaus(今はHardenbergsche … 続きを読む ハノーファー総督・駐留軍司令官のベルナドット
ナポレオンに忠誠を誓うベルナドット
1804年3月にアンギャン公事件があり、王党派が依然として復古を狙っている事が分かった。 これにより、人々はナポレオンか王党派かの二者択一を迫られることになったとの事。 (王政復古を避けるにはナポレオンしかなく、共和政 … 続きを読む ナポレオンに忠誠を誓うベルナドット
西部方面軍司令官のベルナドット(2/E)
1802年3月にアミアン条約でフランス革命戦争が終了するまで、西部方面軍司令官を 務めていた。その間は何事も無く、手持無沙汰だったようである。 辞任してパリに戻ってからは、次の2つの事件で嫌疑を受けて憲兵司令官のダブー … 続きを読む 西部方面軍司令官のベルナドット(2/E)
西部方面軍司令官のベルナドット(1)
1800年5月1日にブリュヌの後任として、西部方面軍司令官に任命された。 表向きは、イギリス軍のブルターニュ侵攻が予想されたので、その対策である。 しかし、実際には王党派の反乱があったヴァンデ県(西部方面軍の管轄下にあ … 続きを読む 西部方面軍司令官のベルナドット(1)
国務院議員のベルナドット
ブリュメール18日のクーデターの後、しばらく無職でいたが。1800年1月23日に 国務院議員となった。クーデター後の議会は、次の3議会に編成変えとなった。 1)国務院 定員300人 法案の起草を行う。また、行政訴訟 … 続きを読む 国務院議員のベルナドット