ベルナドットの結婚

 無職になったベルナドットは、パリの社交界で主流になりつつあった ジョセフ・ボナパルト(30歳)のパーティーに顔を出すようになった。 ここでデジレ・クラリーと知り合い、1798/8/17に結婚した。 ベルナドットは35歳 … 続きを読む ベルナドットの結婚

三色旗事件のフランス側対応(3/E)

 総裁政府は、事件に対する態度を曖昧にしたままにしていた。5/24にパリに 着いたベルナドットは、タレイランから明快な補償はできないと伝えられた。(*1) (*1)ベルナドットの扱いが、事件に対する政府の態度になる為、明 … 続きを読む 三色旗事件のフランス側対応(3/E)

三色旗事件のフランス側対応(2)

 事態が思った以上に深刻なものであり、戦争の危機と国の名誉とのジレンマに 悩んだ総裁政府は、ナポレオンを全権大使としてオーストリア側とラシュタットで 交渉する事にした。オーストリア側は、この柔軟な態度に喜び(*1)、外務 … 続きを読む 三色旗事件のフランス側対応(2)

三色旗事件のフランス側対応(1)

 ウィーンを去ったベルナドットは、4/23にラシュタットに到着。ここに滞在して、 事件対応の承認とパリ帰還を求めた。並行してウィーンから直接パリに向かった ヴィレ・フォヴィルとマレホスキーは、4/23に到着して事件の詳細 … 続きを読む 三色旗事件のフランス側対応(1)

ウィーンからの退去

 皇帝はコロレド(Colloredo)伯爵を使者に送って返事をしてきた。 1)今回の事件に遺憾の意を表明する。 2)事態の鎮静化を命じた。 3)大使が留まる事を希望する。 4)事件の調査を約束する。 5)大使が心配してい … 続きを読む ウィーンからの退去

三色旗事件の抗議

 群衆の解散後、直ちにベルナドットは、オーストリアの外務大臣ツゥグート宛てに 手紙を書き、ウィーンからの退去を宣言した。 1)このような状況が続くなら、この地に留まっても意味がない。 2)オーストリア政府が命じて、オース … 続きを読む 三色旗事件の抗議

ウィーンでの三色旗事件

 1798/4/13 夕方5時頃に総裁政府からの命令で三色旗を大使館のバルコニーに掲げた ことが事件のきっかけになった。(この当時、国旗を掲揚する慣習はなく、ブルボン王朝時代の フランス大使館でも国旗は掲揚しなかった。) … 続きを読む ウィーンでの三色旗事件

ベルナドットとベートーベン

 ベルナドットは、大使としてウィーンに住んでいる色々な人々と会う機会が多かった。 その中で、作曲家のベートーベンとも何回か会った。ベルナドットがナポレオンの為に 英雄交響曲の製作を勧めたとの間違った話があるが、これはない … 続きを読む ベルナドットとベートーベン

ベルナドット大使の任務

 ベルナドットの任務は、次の2つである。 1)表向きは、フランスとオーストリアの外交再開である。 2)裏の目的は、フランス軍のローマ進攻からオーストリアの注意をそらす事である。 2番目は成功しており、1番目は余り期待され … 続きを読む ベルナドット大使の任務

ベルナドットのウィーン着任

 総裁政府が何もしないので、ベルナドットは、ラシュタット会議に出席している オーストリア全権大使のコベンッェル(Cobenzl)伯爵にウィーン駐在フランス大使任命を 知らせた。彼は1798/1/21にベルナドットからの手 … 続きを読む ベルナドットのウィーン着任