アイラウの戦いでのプロシア軍

前回、カール・ヨハンが”アイラウの戦いで大失敗した部隊機動”と指摘した事について考えてみた。

1.アイラウの戦い
 プロシア軍がロシア軍の増援として戦場に来た時に、弱体化したロシア軍左翼に配置するように
 ロシア軍司令官のベニグセン大将から要請された。
 (下図はMilitary History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP74から引用)

 その結果、ロシア軍左翼は安定して、ダヴー元帥のフランス軍第3軍団は後退する事になった。
 しかし、プロシア軍を追跡してきたフランス軍第6軍団(ネイ元帥)が近づきつつあった。
 (下図はMilitary History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP75から引用)

 Military History and Atlas of Napoleonic Warsの文章やThe Campaigns of Napoleonを見ても、
 プロシア軍の部隊機動を失敗したとは記載していない。

 何故、カール・ヨハンは大失敗と考えたのだろうか?
 以下に推測を述べる。
 1)ロシア軍左翼を安定させたが、フランス軍第6軍団による補給路(上図2本線道路)遮断と
   包囲の危険を招いた。結果的には遮断されなかったが、プロシア軍がロシア軍後方に
   第2陣として配置すれば危険を避けられた。
 2)ロシア軍左翼は後退してプロシア軍の左翼に回わり、中央と右翼は連動して後退すれば良い。
 3)一時的な戦線の安定よりも、補給路遮断・包囲を避けるほうが賢明である。

2.ライプツィヒの戦い前
  カール・ヨハンの北方軍がブリュッヒャー大将の軍の左翼に位置すると、
  Wittenbergのフランス軍が南下してくると後背から攻撃を受ける。
  ブリュッヒャー大将の後方に位置すれば、そのような攻撃は避けられるし、
  必要に応じてブリュッヒャー大将を支援できる。
  やはり、左翼の安全よりも本隊後方の安全の方を優先するのが良い。

<個人的な感想>
ブリュッヒャー大将に同行する同盟軍の武官は全てブリュッヒャー大将案(左翼に配置)に
賛同したとの事。それだけ、自然な発想と思われる。(もちろん後衛は配置する)
当面の左翼重視か、将来に備えての後方重視か、は意見が分かれるが大多数が前者に賛同するし、
自分もそう思う。
ライプツィヒの場合は、スウェーデン軍の消耗を避けるための口実として言い出したものと思う。