1813年のカール・ヨハン(9)

カール・ヨハンは北方軍をエルベ川東岸に留めて約3週間近く動かなかった。
同盟軍(特にプロシア軍)からかなり非難されたが、外交交渉をしていることもあるし、
エルベ川を渡るとナポレオンとの直接対決の危険が大きくなるので、見送っていた。
(下図はMilitary History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP139bから引用)

プロシア、オーストリア、ロシアからエルベ川を渡るように使者が来て、やっと10月4日に渡河した。
各国君主は総司令官として2つの会戦に勝利した事を祝して以下の軍人として最高位の勲章を使者に持たせた。
プロシア:大鉄十字章
オーストリア:マリア・テレジア軍事勲章
ロシア:聖ゲオルギー勲章(*1)
*1 現役のロシア軍人では誰も受けていない最高位。その前の受勲者は故クツーゾフ元帥である。

ロシア皇帝からの使者フランス人Rochechouart(ロッショシュワー)大佐には、
カール・ヨハンは次のように現在の状況を述べている。
”私の現在の立場は、最大限の慎重さを必要とするほど微妙で困難なものであることを理解して欲しい。
 フランス人の血を流すことへの嫌悪感とは別に、私は自分の名声を守らなければならない。
 私には幻想などない。私の運命は一戦に賭けられている。
 もし私が敗れれば、ヨーロッパを探し回っても6フラン(*2)を貸してくれる人は見つからないだろう。”
*2 今の円に換算して約1万5千円。(当時のパン・牛肉の値段と今の日本の値段から円に換算)

渡河した時期の各軍の配置は下図の通りである。
(下図はMilitary History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP139dから引用)

<個人的な感想>
渡河した時期は最適と思う。渡河前の9月19日では単独でフランス軍と戦う必要がある。
しかし、渡河後の10月9日ではフランス軍の前にブリュッヒャー大将のシレジア軍が居て、
彼らが真っ先に戦ってくれるので、スウェーデン軍の消耗を避けられる。
自分の評判よりは軍の消耗を避ける事を優先したと思う。

プロシア軍(特にビューロー中将)から見れば、勝利の勢いでナポレオンの後方を遮断するように
進軍したいと思うのは自然な発想である。しかし、トラッヘンベルク計画を忠実に守るためにも、
同盟軍の全軍が集中しないとナポレオンに各個撃破される危険性があるので、
カール・ヨハンの判断は妥当であると思う。

ウーディノ元帥が軍団長を解任されて(*1)若年親衛隊の師団長に異動した点が面白い。
ナポレオンは2つの会戦で第12軍団が消極的な行動をした事が敗因の1つと考えて、
ウーディノ元帥には軍団指揮も任せられないと判断したように思う。
ネイ元帥への軍引き継ぎ怠慢やカール・ヨハンからの平和を促す手紙を見せたことも
要因になったかも。
*1 第12軍団は解体されてフランス軍部隊は第7軍団へ、バイエルン軍部隊は要塞守備隊に改編された。