ジョミニはネイの参謀、最終的には参謀長として2回支えた。
その概要を少し調べてみた。
1)1回目は1805年8月頃から1809年10月まで。
参加前に著作として”大軍事作戦論”の初めの2巻を出版しており、
ネイは高く評価していたとの事。
ウルム戦役からフリートランド戦役までと、スペイン戦役に従軍。
この間にレジオンドヌール勲章(騎士)、男爵を授与されている。
傭兵とはいえ大佐待遇なので、勲章と爵位の年金も合わせて
推定年収は5200万円。
参謀長を辞任した理由は、ネイが不在の間に第6軍団司令官代理に
なったマルション少将がタマメスの戦いでスペイン軍に惨敗した事が
原因らしい。参謀長として補佐していたのに何事かとネイに責められ
たが、ジョミニには言い分があつたようで口論になり、結局ジョミニが
辞任した。
2)2回目は1813年5月。
ナポレオンの命令でネイの参謀長になったジョミニは、バウツェンの戦いに
従軍した。この時の貢献でネイが少将への昇進(1810年に准将になってた)を
推薦したが、ナポレオンの参謀長ベルティエ元帥(*)に拒否された。
更にベルティエは逮捕命令まで出したようで、嫌気がさしたジョミニは、1810年
にもオファーを受けたロシア皇帝の下に去った。
(*)ベルティエはジョミニを相当嫌っていたようである。
3)1815年にはロシア皇帝の参謀の立場でありながら、ネイの死刑に反対した。
余りに熱心であったので、ロシア軍での地位を危うくするほどであった。
<個人的感想>
ジョミニがネイに的確な助言をした事が公開されているのは、2回目の
バウツェンの戦いである。1回目は期間が長い割に、見かけない。
スイス人の傭兵である点がマイナスになっているので、他のフランス人
参謀や指揮官から余り良く思われていないのかも。ネイの個人的助言者
という位置付けなら、不在の時に助言が採用されずにタマメスの戦いで
フランス軍が負けた事は理解できる。
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