1806年マイダの戦いでフランス軍は横隊で前進したか?

松浦さんのブログ”縦隊は白兵戦を行う際に使用される隊形ではない?”で
マイダの戦いについて触れられていた。
フランス軍は横隊で前進したのに縦隊との誤解を広めたと書かれている。
気になったので調査した結果を以下にメモしておく。

1.結論
  フランス軍コンペール准将の軽歩兵第1連隊(下図枠内)は、通常の横隊ではなく
  斜線形の横隊(échelon(エシュロン))で前進した。
  WEBページBattle of Maidaから下図を引用。

2.根拠
(1)1806年7月5日、カタンツァーロからジョセフに宛てた報告書の中で、レイニエ少将は次のように記している。
   1ère Demi-brigade/1er Régiment d’Infanterie légère
   Forces françaises à la bataille de Maïda – 1er juillet 1806から下図を一部抜粋。
   意訳すると
   ラマト川に分断された軽歩兵は、川を渡河するイギリス軍に圧迫された。
   敵の第一線は散兵を追ってわずかに前進していたが、私は彼らを後退させるため撤退を命じた。
   私は第1軽歩兵連隊に散兵支援のため左翼を前進させるよう命令し、
   ”旅団長に旅団の残りはエシュロンで前進するよう命令した。”(下線部)
   スイス兵とポーランド兵には第二線の動きに追従するよう命令し、
   右へ流れすぎていた第23歩兵連隊にはスイス兵に接近するよう命令し、
   全戦力を敵中央に集中させるつもりだった。
(2)軽歩兵第1連隊第2大隊のデュティルト大尉は次のように回想している。
   下図も(1)と同じページから一部抜粋。
   意訳すると  
   ”平原に入るとすぐに攻撃隊形を組み、その後すぐに二列の横隊を敷いた。”(下線部)
   野戦部隊の軍規に反して、我が連隊は左翼を、第42連隊は右翼を陣取った。
   ”第2大隊が前進を開始し、続いて第1大隊が前進を開始、続いて第42連隊の2個大隊が
   左翼を先頭に斜めの隊形を敷き、敵の戦列に合わせるよう命令を受けた。”(下線部)
   この地点は起伏の多い地形だったため、この措置が必要だったと思われる。
   しかし、これは我々にとって致命的だった。敵は塹壕を掘り、固い決意で我々を待ち構えていた。
   隊形を修正するための指定地点は既に通過していたため、
   第2大隊がイギリス軍の砲火で停止するまで修正は不可能だった。
   左翼と常に同じ高さで行軍していた司令官は、総指揮官と各指揮官を指示された方向に配置した。
   その時、我が軍の左翼を攻撃していたイギリス軍の二個中隊が我が軽歩兵によって敗走させられた。
   そして、この軽歩兵も、我々の側面を攻撃しようとしていた多数のイギリス軍散兵の接近によって撤退を余​​儀なくされた。
   幸いにも、散兵たちは我が左翼と海の間に割って入り、砲艦による我が軍の側面への射撃を阻止した。
   もし我が戦列がもっと早く形成できていれば、イギリス軍の隊列は動揺していただろう。(**)
   後衛部隊に動揺と動きが見られ、兵士を隊列内に留めようとしていることが見て取れたからだ。
   しかし、我々が戦列を整えている間に、イギリス軍はまず我が第2大隊、次いで第1大隊に激しい砲火を浴びせた。
   我が軽歩兵は死を運命づけられた犠牲者のように、銃弾を受けながらも攻撃開始の命令を待つ間、無表情のままだった。
   イギリス人が「弾幕」と呼ぶこの射撃の後、第42連隊の大隊が前線に急行する中、
   我々は的確に狙いを定めた中隊射撃に襲われ、わずか2分足らずで最前線にいた我が連隊の700名近くが戦線離脱した。
   ”我々は司令官が腕を骨折して倒れるのを目撃した。”(下線部)
   彼は共和国軍の立派な老兵であり、北方軍との戦闘で既に足を二箇所骨折していた。
   ”第2大隊のガストレ大隊長は数発の銃弾を受けて戦死した。”(下線部)
   22名の将校、多数の戦列歩兵、下士官、軽歩兵が戦線離脱。
   もはや持ちこたえられなくなった第一線は、大きな混乱もなく反転し、第二線の後方へ後退した。
   この第二線は、かろうじて編成が整い、前進するイギリス軍の前線に対抗するには弱すぎたため撤退し、全軍が失われた。
   この第二線はスイス軍2個大隊とポーランド軍1個大隊で構成され、
   湿地帯では機動性が発揮できない猟兵中隊の支援を受けていた。
(3)Imperial Bayonetsのp147,148にéchelon(エシュロン)の記述がある。
   第5章旅団の機動 に含まれるが、旅団戦術について重要な議論を含む文書は次の2つしか存在しないとの事。
   ・ネイ元帥の『回想録』とムニエ男爵の『旅団戦術の展開』
   (その為、エシュロン隊形は余り知られていないのかもしれない。)
   下図はp146から引用

   下図はp148から引用
    上記(2)で”第2大隊が前進を開始し、続いて第1大隊が前進を開始、続いて第42連隊の2個大隊が
    左翼を先頭に斜めの隊形を敷き”と記述されているのと同じである。

<個人的な感想>
軽歩兵第1連隊の潰走は旅団長の負傷、大隊長の戦死、士官を含む多数の負傷によるものであり、
原因はエシュロン隊形により大隊間の連携が上手く行かなかった事にある。
上記(**)に記載があるように、戦列を組み直して敵に最後の突撃するまでに時間が掛かり過ぎた。
レイニエ少将の指示が裏目に出たと思う。なお、右隣の戦列歩兵第42連隊もコンペール准将の指揮下にある。

デュティルト大尉は”第一線は、大きな混乱もなく反転し、第二線の後方へ後退した。”と
記載しているが、実際は潰走である。素直には認められないか・・・。

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