三色旗事件のフランス側対応(3/E)

 総裁政府は、事件に対する態度を曖昧にしたままにしていた。5/24にパリに

着いたベルナドットは、タレイランから明快な補償はできないと伝えられた。(*1)

(*1)ベルナドットの扱いが、事件に対する政府の態度になる為、明確に補償

するとベルナドットの行動を承認したことになる。

 

5/27にはバタヴィア共和国(旧オーストリア帝国のオランダ領)の大使任命が

タレイランから伝えられたが、5/29にベルナドットは断りの手紙を書いた。

”総裁閣下、外務省からバタヴィア共和国の全権大使候補の連絡がありました。

このような名誉な仕事の申し出に、大変感謝いたします。

故郷から離れていますが、社会保障の価値が分かる人々が暮らし、生活する上で

測り知れない利点があります。この仕事を受ける気に十分な魅力です。しかし、

貴方達は私の希望と外交任務は気が進まない事を承知していると思います。

私は、最近ウィーンで起こった事件の報告の中で、この点を説明しています。

ウィーン大使は私の希望ではなく、命令への服従と共和国に対する献身の為である事を

貴方達はご存知です。

もし、ヨハン・デ・ウィットやマールテン・トロンプ(*2)の名声を引き継ぐのが私の運命ならば、

私は彼らと同じく栄光を心から敬愛し、また祖国繁栄の為に戦う闘士になるでしょう。

私の後任者に意志の純粋さと義務への熱心さを見つけられるでしょう。

私の軍事・外交に関する貴方達の称賛を敬意を持って受け止めます。

私の外交に関する経歴は、あの事件が全てです。いくつかの新聞は、

事件に関して私が誤ったと公に非難しています。

政府が真実を国民に知らせる日が遠くない事を期待しています。

総裁閣下、私は大変感謝しております。

自由に貢献した人の名声は、国民的な財産であることを貴方達は感じたと思います。”

(*2)17世紀のオランダ・イギリス戦争時のオランダ政治指導者と海軍提督。

 

 上記の手紙は、ベルナドット、総裁政府も承知の上でモニトゥール新聞に掲載された。

三色旗事件の事後処理は、ラシュタットの対岸にあるフランスのセルツ(Seltz)で行われ、

最終的に次の点を合意して7月末に妥協した。

オーストリア皇帝は、暴動を起こしたグループを起訴する。

フランス政府は、ベルナドットの行動が適切でなかったと表明する。

 

<個人的感想>

 両国政府とも大ごとにせずに、灰色の決着で済ませたかったと思われる。総裁政府は、

ベルナドットに新聞上で発言させ、政府としても称賛はしないが、大使任命で彼を評価

している事を公式に表明したのも、同様な灰色の決着と思う。

17世紀のオランダ人政治家ウィット(最後は暴徒により惨殺された)とトロンプ提督

(最後は戦死)を例に出したのは、非難を浴びても自分の信じる道を歩んで死んでも

悔いはないと言いたかったのか・・・。

 

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