べルナドットがフランス大使としてウィーンに赴任する時の、フランスと
オーストリア間には次のような背景があった。
1)フランス革命政府のオーストリア帝国に対する宣戦布告(1792年4月)から
5年以上も経過し、その間は外交関係は途絶えていた。
2)マリー・アントワネット処刑(1793年10月)の件もあり、ウィーンでは反仏
(革命政府)感情が以前として高い状況にあった。
3)フランスからオーストリア帝国に亡命した貴族たちは、歓迎されてウィーンに
多数住んでいた。
4)総裁政府は、オーストリア帝国に強硬な態度で臨む事にし、大使派遣について
オーストリア帝国と事前に何も調整していなかった。
5)革命戦争を終結させるための和平交渉は、ライン川沿いの町ラシュタットで
1797/11/28から始まっていた。
上記のような難しい状況下での大使派遣となる為、総裁政府はベルナドットの
機嫌を取るように次の手を打った。
1)任命の公表の時に、彼の軍歴を大いに誉め、今回の任命も輝かしい任務の
1つになると期待を表明した。
2)諸経費を含めた大使の年収を3億3600万円にした。(*1)(*2)
(*1)ウィーンでの大使館賃貸料など、何もない所から大使館を立ち上げる事に
なるので、多額の経費が必要になり全額がベルナドットの給料ではない。
(*2)方面軍司令官の3.75倍の年収。この時のベルナドットの個人資産は、
イドリア水銀のボーナス1億2000万円であった。
<個人的感想>
外交経験のない軍人を国交途絶して5年の敵性国家に大使として送るのは、
無謀と思われる。しかし、表向きは友好関係の樹立であるが、裏の目的は
フランス軍のローマ進攻からオーストリアの注意を大使派遣に向ける為の
陽動作戦である。
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