グラディスカ要塞の降伏後、ベルナドット師団は再び前衛としてゴリツィアに向かい、
オーストリア軍の後衛と交戦しながら3月21日にはゴリツィアに入った。
ここで、右翼は2つに分かれ、ナポレオンとセリエ師団は北上してクラーゲンフルトへ、
ベルナドット師団はリュブリャナ経由でクラーゲンフルトへ向かう事になった。
ベルナドットが、グラディスカ攻撃命令が口頭で曖昧(どちらでも良い)だったと不満を
言っている事をミュラから聞いたナポレオンは、今回は書面で命令を出した。
ゴリツィアからリュブリャナまでは約120kmあり、10日間で進攻した。1日当たり
12kmの割合になる。通常の行軍の半分の速度であるが、オーストリア軍の後衛と
交戦しながら進んだ事(1500人を捕虜)と、ナポレオンの命令でイドリア水銀鉱山と
トリエステの占領を行った事により、時間がかかった。イドリア水銀鉱山では、現在の
円に換算して(1フラン2400円)100から120億円相当の水銀を押収した。
これらは、ナポレオンが派遣した軍管理委員により処理された。(別ページに記載)
なお、リュブリャナが中心都市のカルニオラ公国(オーストリア帝国の構成国)は、
ベルナドットの支配下になり、略奪禁止の宣言が公表され(違反した者は死刑)、
住民から歓迎された。
リュブリャナで4月3日にナポレオンから直ぐにクラーゲンフルトに来るように命令を
受け85kmを2.5日間で行軍した。1日当たり34kmなので、かなり早い。
<個人的感想>
イタリア方面軍の慣習と異なり、サンブル・エ・ミューズ軍の慣習である
略奪禁止と教会などへの敬意を示した事は、単独行動ができた為と思われる。
ただ、この評判はオーストリア軍と共に他のイタリア方面軍にも伝わり、
更に仲が悪くなったようである。
ミュラによれば、イタリア方面軍では褒美として将軍に1つの町が与えられ、
そこで税金・食べ物などを自由に徴収して良い事になっている。それで、
裕福になる将軍もいる。その話をミュラから聞いてもベルナドットは、
略奪・徴収をしなかったのは立派である。
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