1797年戦役のベルナドット(3)

 タリアメント川渡河戦の翌日には前衛師団として進軍を再開し、2日後の19日朝には

57km離れたグラディスカ要塞に到着した。1日当たり28.5kmになるので、やや早い進軍である。

グラディスカ要塞には約3000人のオーストリア軍守備隊が居た。

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午前10時にナポレオンはベルナドット師団に来て、次の命令を口頭で出してから立ち去った。

”君が攻撃すべき敵が、あそこに居る。君は奪取するか包囲する必要がある。今夜には、

あそこの丘で私に合流するように。私はそこにセリエ将軍と行っている。”

 

どうするかをベルナドットに丸投げしたような命令について、ベルナドットは参謀長の

サラザン大佐に次のように愚痴ったらしい。

”彼(ナポレオン)は、私を妬ましく思っており、私が面目を失うのを期待している。

私には攻城戦に必要な器材もないし、私が義務を果たしたと言える根拠になる

書面の命令もない。”

包囲を選択すれば、戦いを避けたと侮られるし(*)、強攻すれば無謀と非難される

状況であり、結局、ベルナドットは師団の名誉を重んじて強攻策を取った。

(*)パドバの閲兵時に参謀長のベルティエが、”砲撃で怯えるのではないか”と

挑発した件や、ミラノでのデュプイ大佐の”ライン軍の紳士達”の皮肉発言の

ように、”見栄えはするが、戦士ではない”と思われていたようだ。

 

まず、第15軽半旅団長のラリュ(Lahrue)大佐を降伏の使者に送り、主な任務は

要塞の状態を偵察して来るように命じた。降伏は拒否されたが、偵察する事ができた。

要塞の外郭は悪い状態であり、壕は乾いており(水がない)、壁も梯子があれば

容易に越えられる高さである。

しかし、梯子を持参していないので(ナポレオンの司令部から何の支援もないし)、

正面扉を砲撃し、斧で破壊する他に道がなかった・・・。

3時間の戦闘で500人が死傷した。その間、ベルナドットは自分自身も銃火に晒して、

兵士を鼓舞した。その後、最後の降伏を迫り、拒否すれば命はないし、梯子の準備も

できて擲弾兵と軽歩兵は命令を待っていると”はったり(梯子はない)”をかけた。

要塞司令官は、近くの丘にセリエ師団の姿が見えた事もあり、結局降伏した。

 

要塞降伏と500人の死傷が出た事をベルナドットから直接報告を受けたナポレオンは、

冷たい態度で、強攻したのは無謀であり、包囲してセリエ師団の到着を待てば、

1人の死者も出さずに降伏させる事ができたと非難した。

しかし、ナポレオンが政府に送った報告では、”ベルナドット師団の兵士は勇気があり、

将来の成功は保証できる。ベルナドット将軍、副官、准将たちは、あらゆる危険に

勇敢に立ち向かった。(*)”と記載している。特にミュラ准将とラリュ大佐の名を上げている。

(*)だぶん現場に居たミュラ准将からナポレオンが状況を聞いたと思われる。

 

<個人的感想>

 ナポレオンは選択肢を与えて、ベルナドットがどうするかで彼の力量を測ったと

思われる。ベルナドットが思ったような妬みではなく、信頼できるかどうか、有能か

どうかを判断する為の、意地の悪いテストと思う。

結果は合格と思われる。多数の死者を出したものの、3時間で要塞を降伏させた

勇気と能力が評価された。ナポレオンとしては、包囲策の方を期待したらしいが・・・。

ベルナドットから見れば、ナポレオンは仕え難い上司と感じたと思われ、初対面も

含めて2人は気が合わなかったのではないか。

また、ナポレオンが言うようにセリエ師団が合流して2万人規模になったからと言って、

3000人の要塞守備隊が簡単に降伏するとも思えない。ベルナドット師団の激しい

攻撃と気迫に押されて、守れる見込みがないと判断したと思う。

 

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