7月6日の早朝からオーストリア軍は、フランス軍左翼(ベルナドットとマッセナの軍団)を
重点に攻撃を開始し、ベルナドットの第9軍団の歩兵(約6000人)は、
前夜の混乱から立ち直れずに攻撃を受けて潰走した(下図枠内)。
(注)下図はEjercitos y batallas 65 aspern y wagram 1809のp66,67を引用したもの。
結局、その後は戦力として復帰できずに戦いが終わった。
下図枠内のRaasdorfで立て直しを図ったが・・・。
(注)下図はEjercitos y batallas 65 aspern y wagram 1809のp70,71を引用したもの。
なお、騎兵と砲兵は、近くの友軍に協力して戦闘を継続していた。
戦闘後にベルナドットは戦場を離れた。辞任した説と解任されたとの説がある。
詳細は、”祖国は危機にあり”さんの1809年7月5―6日ドイチュ=ヴァグラムを参照。
<個人的な感想>
ベルナドットとナポレオンは、お互いに嫌気が差して限界が来たものと思う。
ベルナドットからみれば、もうナポレオンには仕えたくないので辞任したつもりである。
ナポレオンからみれば、勝手に辞めるのは許せないので、解任とした。