1796年戦役のベルナドット(12)

 9/18から19もベルナドットとマルソー師団は側衛を続けて、9/19には

アルテンキルヒェンに到着した。ここでマルソーは狙撃されて重傷を負う。

駆けつけて来たベルナドットと次のような会話をした。

マルソー:友よ、行ってくれ。他人の失敗の為に死ぬようだ。(*1)

     もう会うことはないだろう。

     しかし、死ぬ前に私の部隊が混乱して退却するのを見たくない。

     それを考えるだけで死にそうだ。

ベルナドット:友よ、そんなことはない。そんな無念は持たない事だ。

     君が見ている限り、兵士達は勇敢に戦う。安心してくれ。

     退却は秩序だって行われている。

(*1)この意味が分かり難い。たぶん、マルソー師団の西側にいたケステルベル将軍の

事を指すと思われる。彼は北方軍から派遣されてマルソー師団の西側を防衛していたが、

リンブルクから西8kmのディ-ツでオーストリア軍が渡河したとの情報を受けた際に、

パニックになり指揮下の師団を連れてノイヴィート方面に勝手に退却してしまった。

その為、マルソー師団の西側が”がら空き”になり、結果としてマルソー・ベルナドット師団が

側衛となりサンブル・エ・ミューズ軍が後退するきっかけを作った。

 

  重傷で動かせなかったマルソーは、戦場に残りオーストリア軍の手当を受けたが、

21日に死亡。1769年生まれで、ナポレオンやネイと同じ歳で、この時27歳の若さであった。

カール大公は、遺体を騎兵に護衛させてノイヴィートまで運び23日にフランス軍に渡し、

葬儀の日を確認させたとの事。フランス軍はノイヴィートから南に20kmにあるコブレンツに

埋葬し、葬儀の際にはフランス・オーストリア軍の両方から弔意の大砲が撃たれた。

今もコブレンツにある墓を次に示す。

マルソーの墓

<後日談>

1)ケステルベル将軍は、その後に解任されて退役となった。

2)後にコブレンツに駐留して司令部を置いたベルナドットは、骨壺から遺灰の

一部を取り出し、姉のエミリアに送ったとの事。

 

<個人的感想>

 オーストリア軍が示した敬意には、感心する。それほどまで、敵味方に感銘を与えた

将軍は珍しいと思う。

 

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