1814年のカール・ヨハン(1/E)

休戦明けに進軍を再開し、デンマークを降伏させた。
1月14日にキール条約が結ばれて、ノルウェーはスウェーデンに割譲され、
代わりにスウェーデン領ポメラニアとリューゲン島はデンマークに割譲された。

念願の目標を達成したので、同盟軍のパリ進軍に参加する為に
1月20日にキールを出発してパリ方面に向かった。
しかし、スウェーデンとの補給線を安全に確立する名目でゆっくりと進み、
パリから北東に350km離れたリエージュ(ベルギー)で停止した。
そこからはビューロー中将のプロシア軍とWintzingerode(ヴィンツィンゲローデ)大将のロシア軍だけを
分離して進軍させ、ナポレオンが退位するまでリエージュを動かなかった。
4月中旬に軍は連れずにパリに来て、同盟国君主とキール条約の確認をした。
5月1日にパリを出発し、途中でスウェーデン軍を集めながら6月初めにはストックホルムに戻った。
(下図はMilitary History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP151から引用)

この頃には、キール条約前のノルウェー総督クリスチャン・フレデリック
ノルウェー議会の承認を得てノルウェー国王を宣言していた。
彼はイギリスに助力を求めたが拒否され、他のヨーロッパ主要国もノルウェーは
スウェーデンに属すると考えていると気付かされた。
カール・ヨハンは7月下旬にノルウェーに進軍したが、
ノルウェー人と戦っているわけではなく、彼らを扇動しているデンマーク人と戦っていると
表明しなるべく流血は避けるようにした。
また、デンマーク統治下よりも大きな自治権を与えると交渉し、作戦開始から2週間以内で戦闘は終結した。
最終的に11月4日にノルウェー議会がスウェーデン国王カール13世をノルウェー国王カール2世として認めた。

ナポレオン退位後のヨーロッパ体制・領土を議論するウィーン会議が9月から開催されたが、
各国の利害が衝突して纏まらない状態が続いた。
スウェーデン関連ではフィンランドがロシアに、ノルウェーがスウェーデンに割譲されることは確定であったので、
代表カール・レーヴェンイェルムを出してはいたが積極的な活動はしなかった。

<個人的な感想>
フランス侵攻に消極的なのは、やはりフランス人として47年間生きてきた為と思う。
かつての母国に攻め込むのは気が進まないのは当然である。

ノルウェー奪取の目的は領土獲得よりも、フィンランド奪還を求めるスウェーデン国民を
なだめる為である。無理に併合して反乱が生じて軍隊派遣となる事は避けたい。
ナポレオンによるスペイン戦役の失敗を見ているし、共和国の為に戦った事を思い出せば
ノルウェーの独立性を認めるのは自然な事かもしれない。

1813年の戦役でスウェーデン軍の消耗を避けたので、デンマーク侵攻も
ノルウェー進軍も順調に終える事ができた。長期的な戦略が実ったと思う。