1813年のカール・ヨハン(7)

デネヴィッツの戦いの夕方にカール・ヨハンはネイ元帥の副官Clouet(クローエ)大佐が
負傷して捕虜になっていると聞いた。
そこで、彼にはネイ元帥付きの大佐にふさわしい敬意を持って必要な手当を行なうように
特別な命令を出し、ネイ元帥宛に彼の負傷状態を知らせると共に以下の手紙を送った。

”我々の利害は一致しないが、嬉しい事に我々の思いは同じである。
 どんな時でも君に対する友情に変わりはない。
 我々は長い間、各地を荒らし回ってきたが、人間らしい事は何もしていない。
 皇帝陛下が名誉ある全面的な和平案を受けるかどうかは、
 皇帝陛下を信頼する君の具申にかかっている思う。
 このような名誉な事は君のような戦士にふさわしいし、
 20年間我々が従事してきた任務の中でもフランス国民から最高に評価されるだろう。
 20年前にはSaint-Quentin(サン・カンタン)の城壁の下で、
 自由と独立の為に戦っていた事を思い出して欲しい。”

ベルティエ元帥、ミュラ、マクドナルド元帥、ウーディノ元帥へも同様の手紙を送った。
彼らが手紙をナポレオンに見せるとナポレオンは激怒し、
ベルティエを「年老いた愚か者」、ミュラを「裏切り者」と大声で非難した。

結果的に和平交渉にはならなかった。

<個人的な感想>
ネイ以外にも手紙を書いたのは、彼だけに書いたのでは忠誠を疑われる可能性がある為と思う。
ネイとは革命戦争時代からの付き合いがあり、ネイを少将に最初に推薦したのはベルナドットであった

ナポレオンがベルティエとミュラに激怒したのは、次の理由と推測する。
1)彼らは最も近い側近であり、名誉も金も最も与えた相手である。
2)しかし、意見を受けるほどの能力があるとは思っていないし、そのように扱ってきた。
3)にも関わらず、和平して欲しいような態度は許せない。黙って指示通り動けば良い。
なお、手紙の末尾にある”自由と独立の為に戦っていた”は、現在のナポレオン皇帝独裁に対する
皮肉と思われる。これもナポレオンを苛立たせた要因の1つと思う。

和平は実現できなかったが、ネイ忠誠を疑われることは無かったので、良かったと思う。