1813年のカール・ヨハン(6)

8月26,27日ドレスデンの戦いの後、ナポレオンはウディーノ元帥の代りに
ネイ元帥をベルリン侵攻軍の司令官に任命した。
ネイ元帥が受けた命令は以下の通り。(下図の橙色矢印)
9月4日にWittenbergを出発し、JüterbogとLuckauを経てBaruthに6日に到着する。
なお、9月4日にはナポレオンの司令部がHoyerswerdaに進出する。
(ナポレオン自らベルリン侵攻を指揮するつもりであったらしい。)
ネイ元帥がWittenbergに来てみると、各軍団はバラバラに展開しており、
軍司令部の幕僚はウディーノ元帥が自分の軍団に連れて戻った為に
部隊を再編成して出発できたのは5日であった。

グロスベーレンの戦いの反省としてナポレオンから各軍団を密集させるように言われた事もあり、
ネイ元帥は進路上を縦隊のように進むことにした。
先鋒はベルトラン少将の第4軍団(多国籍混成軍)、中間はレニエ少将の第7軍団(主にザクセン軍)、
最後尾がウディーノ元帥の第12軍団(主にフランス軍)である。
予定よりも遅れていることもあり、十分な前衛騎兵による偵察を省略して進軍した為に、
Dennewitz(デネヴィッツ)で先鋒の第4軍団がプロシア軍第4軍団(タウエンツェーン大将)と交戦した時に
敵の配置状況が不明であった。
更にレニエ少将とウディーノ元帥との連絡が不十分な為に、この交戦開始時に第12軍団は
この日の出発位置に留まったままであった。
結果的にデネヴィッツで実質的に戦ったのはフランス軍第4,7軍団だけであった。

カール・ヨハンはTreuenbrietzenとJüterbogに北方軍を展開させており、
デネヴィッツの西方に居たビューロー中将の第3軍団は戦場に駆けつけることができた。
フランス軍第7軍団は再びプロシア軍第3軍団に敗北した。
カール・ヨハンが一部のスウェーデン軍とロシア軍騎兵と共に戦場に到着した時に
フランス軍の潰走が始まった。
(下図はMilitary History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP138から引用)

なぜかデネヴィッツの戦いの絵ではカール・ヨハン(白馬の人の右)が中央に描かれている。
この戦いの一番の功労者はビューロー中将であるが・・・。

<個人的な感想>
ネイ元帥はナポレオンからの命令とウディーノ元帥の非協力により選択肢が限られたように思う。
自由に任されていれば、前衛に十分な騎兵を配置して不意打ちを受ける(*1)ことも、
部隊配置に制限を受けることもなかったはず・・・。
(*1)Jüterbogに到着する前に本格的な会戦を予想していなかった。

カール・ヨハンはハーゲルベルクの戦いの勝利でマグデブルグ守備隊による脅威がなくなったので、
TreuenbrietzenとJüterbogまで軍主力を進められた事が大きい。
時間制限も部隊配置の制限も受けないので、思うようにできた。
→スウェーデン軍とロシア軍の消耗を避けられた上に、プロシア軍が頑張って2度目も会戦に勝利した。