1813年のカール・ヨハン(3)

休戦期間中は戦争準備に追われていたが、アメリカ合衆国から戻ってきたモロー将軍と
9年ぶりに再会した。
約1年前にフィンランドのトゥルクでカール・ヨハンとロシア皇帝が会談した際に
モロー将軍を招く事で合意して使者を送った結果である。

再会する前にモローはカール・ヨハンに宛てた手紙で次のような気持ちを伝えていた。
”私はスウェーデン皇太子ではなく、かつての戦友宛に書いている。
 私の同胞にこそ、私の心の奥底にある思いを打ち明けることができるし、またそうすべきである。
 私はフランス軍の先頭に立ってフランスに戻る覚悟はできている。
 しかし、外国軍の先頭に立ってそうすることは嫌だ。”

モローは3日間シュトラールズントに滞在し、カール・ヨハンの戦略的位置について議論をした。
内容については次回に記載する。

モロー将軍はロシア皇帝の招きで連合軍総司令部に同行したが、冷遇された。
同盟軍の司令官達はモローの部下になることを望まなかった為、
モローはロシア皇帝の公式軍事顧問という地位で満足せざるを得なかったが、
この人事は無駄に終わった。それは、同盟軍の指揮官達は彼の忠告を無視したからである。
一例は、ドレスデン会戦の際に都市への強襲を進言したが、オーストリア軍総司令官
シュワルツェンベルク元帥は都市を破壊したくないと取り上げなかった。
モローは、”それが17年間も負け続けた理由です”と答えたとの事。

モローが砲弾で両足を失って戦死した時に本当に悲しんだ同盟軍の将軍は誰も居なかった。
フランスの将軍としては、悲劇的な最後であった。
カール・ヨハンだけが心から悲しんでいた。
彼はモローの思い出に敬意を払い、未亡人を慰め、娘には将来の結婚持参金として10万フラン(*1)を贈った。
(*1) 今の円に換算して約2億4千万円。(当時のパン・牛肉の値段と今の日本の値段から円に換算)

<個人的な感想>
カール・ヨハンは北方軍の事で手一杯になるので、代わりにロシア皇帝の軍師としてモロー将軍を
推薦していたと思われる。同盟軍で当てに出来る能力をもった軍人がいないと考えたか。
カール・ヨハンにとって、ロシアは強力な同盟者のままで居て欲しい。惨敗してロシアに戻る事態は
何としても避けなければならず、適切な軍事的助言を出来る人間が必要である。
ロシア遠征の失敗を別にすれば、同盟軍の将軍でナポレオンに対応できる人は誰も居ないことが
明白な事実なのかもしれない。
残念ながら力を発揮する前にフランス軍の砲弾で命を落とす事になるとは誰も予想できない。