1813年のカール・ヨハン(2)

カール・ヨハンとスウェーデン軍は5月18日にシュトラールズントに到着し、
スウェーデン領ポメラニアを回復し始めた。
しかし、指揮下に入るはずのロシア軍とプロシア軍は姿が見えず、悪い知らせが届いた。
5月2日リュッツェンの戦い(下図①)でロシア・プロシア連合軍はナポレオンに負けて退却中である。
さらに悪いことに、ノルウェーをスウェーデンに割譲することを明言しないまま、
デンマークの中立が確認された。
その為、デンマークへの侵攻は延期するしかなかったが、
しばらくして、デンマークはナポレオンと同盟することを宣言したので、外交上の障害はなくなった。
この時、ハンブルグにはダブー元帥の第13軍団35000人が進駐していた。

その後5月21日にバウツェンの戦い(上図②)でロシア・プロシア連合軍は再びナポレオンに負け、
6月4日に休戦に合意した。その際に、カール・ヨハンには何の連絡もなかったし、
会議に英国とスウェーデンが招かれなかった事に憤慨した。
スウェーデン駐在の英国大使は本国に、カール・ヨハンが今回の戦役を放棄する可能性があり、
同盟国への信頼が低下してると報告した。

7月にシレジアのトラッヘンベルクでロシア皇帝、プロシア王、カール・ヨハンの首脳会談が行われ、
ナポレオンに対する戦略を合意した。
北方軍司令官として、増援のロシア軍とプロシア軍を加えて12万人の戦力を指揮することになった。
しかし、ロシアとプロシアの軍人達は快く思っていなかったし、
特にプロシア軍人(ブリュッヒャー大将とタウエンツェーン大将など)は
カール・ヨハンを信用していないし、トラッヘンベルク計画も疑問視していた。

<個人的な感想>
カール・ヨハンの初めの計画では、シュトラールズント上陸後にデンマークに侵攻し、
ノルウェーを割譲させた後、本格的にナポレオンと戦う予定であったとの事。
しかし、状況が変わり、ナポレオンと戦う事が先になってしまった。
この事が、今後の戦い方を左右したものと思う。
それは、将来のデンマーク侵攻に備えて中核となるスウェーデン軍の消耗を避ける事である。
その為、なるべく自分の軍はナポレオンとの戦いを避けて、戦闘以外での消耗戦(補給戦)を
狙うことにしたと思う。北ドイツは、同盟軍のホームグラウンドであるが、フランス軍にとっては
敵地なので、長期的には兵士・物の消耗が大きい。
その意味で、トラッヘンベルク計画はカール・ヨハンの思惑に一致する。
ナポレオン以外のフランス軍指揮官相手では本格的な戦いにならないように出来るし、
ロシア軍・プロシア軍・オーストリア軍(近い将来は同盟軍に参加予定)は本気で
フランス軍と戦ってくれるので、消耗戦で一番得を得るのはカール・ヨハンである。
トラッヘンベルク計画の立案者については色々な説があるらしいが、
最も計画を忠実に実行して成果を得られたのはカール・ヨハンである。
計画を棚上げしてドレスデンでナポレオンと戦った主力のオーストリア軍は痛手を受けたし、
ロシア軍・プロシア軍も戦力を消耗した。