1812年のカール・ヨハン(3/E)

6月にナポレオンはロシア遠征を開始した。

8月にはスモレンスクの戦いが行われた。
同じ8月にフィンランドのトゥルクでカール・ヨハンとロシア皇帝は会談を3日間行った。

会談では同盟強化が確認され、主に次の点が議論された。

1)ロシア皇帝がサンクト・ペテルブルクの占領を心配していると話すと、
  カール・ヨハンは以下の壮大な話をした。
  ”そのような危機が迫れば、自分は20万の兵士を引き連れて
   ブルターニュに上陸し、パリに進軍します。
   そうすれば、かつてのフランス革命を思い出して友は私を抱擁するでしょう。”
  ロシア皇帝はカール・ヨハンの隠れた野望を感じ取った。

2)ロシア皇帝は妹のエカテリーナとの結婚を勧めたが、断った。
  1810年にナポレオンはジョゼフィーヌを離別し、オーストリア皇女マリ・ルイーズと結婚しており、
  王子ナポレオン2世が1811年に誕生していた。

3)ノルウエー奪取計画は延期するので援軍のロシア軍35000人は
  ロシア防衛に回すようにカール・ヨハンが話した。
  ”陛下が敗北したら、全欧州がナポレオンに服従することになります。”と言って激励した。

会談後もカール・ヨハンはロシア皇帝と頻繁に手紙を交換し、
以下のように励ました。
”結果がどうであれ、陛下が心配するに及びません。
 ナポレオンは1戦目と2戦目、3戦目さえも勝利できるでしょう。
 4戦目は引き分けにできるかもしれません。
 それでも、陛下が軍を保持すれば、5戦目は必ず勝利を収めることができます。”

”ローマはハンニバルをイタリヤから追い出すため、アフリカに軍を派遣しました。
 ミトリダテスは敗戦の危機に際しても、元老院に和平を要求するためにローマに軍を送りました。
 陛下が約束された軍隊を私の裁量に委ねることができれば、
 ナポレオンがたとえサンクト・ペテルブルクとモスクワを占領したとしても、
 5月までには防衛のために自らエルベ川(下図右)とヴェーザー川(下図左)の川岸に来る事になるでしょう。”

モスクワ占領の知らせを受けても、
”ナポレオンは最終的に打ち負かされるに違いありません。
 なぜなら、陛下の軍隊は損害を修復することができ、常に数の優位を保つことができるからです。
 一方、ナポレオンの軍隊は本拠地から遠く離れており、ポーランドやドイツ内陸部からの援軍を
 期待することはできません。”

イギリスとは和平を結び、両国の交易が正式に再開された。
またフランスには英仏間の中立を通知した。
ロシアからの35000人の援軍はキャンセルされたが、苦情は言わなかった。
ノルウエー奪取計画は延期のままとし(*1)、ロシアとは共に英国と同盟しようと誘った。
しかし、英国はスウェーデンによるノルウエー奪取に反感を持っており、
この時点ではデンマークを同盟に引き込めると期待を持ってた。

(*1)スウェーデン軍だけではデンマークとの戦争は無理であり、
  ロシアからの35000人の援軍が必要な為。

<個人的な感想>
ロシア皇帝への手紙には、激励の為とはいえ誇大な表現が多い。
ロシアが負ければ自分の首も飛ぶので、何としても踏ん張って欲しい気持ちは分かるが・・・。