1807年戦役のベルナドット(4)

 アイラウ会戦は引き分けに終わり、両軍とも再度冬営に入った。

ベルナドットの軍団は、左翼でDanzigとロシア軍との連絡路を遮断する任務を与えられていた。

下図は、Military History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP76aの抜粋である。

ナポレオンが攻勢を準備中に、ロシア軍は6月4日に全面的な先制攻撃を掛けてきた。

ベルナドットの方面では、レストク中将指揮のプロシア軍がSpanden(青枠の地点)に攻撃を掛けてきた。

下図は、Military History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP76bの抜粋である。

プロシア軍を撃退したが、5日の戦闘中にベルナドットは首にマスケット弾を受けた。

その後、ベルティエ元帥に以下の報告を送った。

”私は、首に銃弾を受けました。この負傷は命に危険はないと思いますが、とても痛みます。

しかし、私は戦場を離れるつもりはありません。皇帝陛下には、必要な限り戦場に留まるとお伝えください。”

折り返し、ベルティエ元帥から以下の手紙が来た。

”陛下が貴方の負傷を聞いた時に感じた痛みは、言い表しようがありません。

特に、貴方の才能がとても必要な時には尚更です。”

第Ⅰ軍団は、ヴィクトール少将が指揮を引き継ぎ、フリートランド会戦で活躍した。

ベルナドット夫人のデジレは、パリから駆けつけてベルナドットの看護に当たった。

 

<個人的な感想>

 ヴィクトールがベルナドット部隊の指揮を引き継いだのは、1797年のイタリア戦役

に続いて2度目である。ナポレオンがヴィクトールを何故に高く評価していたのか謎である。

モールンゲンの戦いで賞賛したように第Ⅰ軍団は精鋭部隊である。そこの指揮官も優秀な

人物を任命するのが適切と思うが・・・。

 

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