リピンを12月23日に出発したベルナドット軍団は23~24日にビエジュン(Biezun)に到着した。
23日にはビエジュンでレストック軍団の先遣隊とグルーシー少将の竜騎兵第2師団とで交戦があり、
プロシア軍は敗北して北に潰走した。引き続きネイ軍団のマルシャン師団も追撃してナポレオンから命令された
任務の1つ、”レストック軍団とロシア軍の合流阻止”は成功した。夕方5時には、その旨をナポレオンに報告した。
第1軍団本隊は、25~26日ビエジュンで待機した。12月25日時点での両軍の配置は以下の通り。
(Military History and Atlas of Napoleonic WarsのMAP70bの抜粋である)
12月26日には、PultskとGolyminで会戦があった。しかし、フランス軍は決定的な勝利は得られなかった。
ベルナドットの左翼部隊は、ナポレオンから命令されたもう1つの任務”ロシア軍の右翼から後方に向かい
敵の連絡線(補給路)を脅かす”事は出来なかった。悪天候と悪路で行軍速度が低下した為である。
それでも、27日には行軍を再開し29日にはシュムスク(Szumsk)付近まで到達した。ここで、
ナポレオンから冬営の命令を受け取り、戦役は終了した。
<個人的な感想>
今回の任務ではグルーシー少将の竜騎兵第2師団の功績が大きい。竜騎兵の突撃が成功して、
プロシア軍は蹴散らされた。ベルナドットからナポレオン宛ての報告書には、特に竜騎兵第6連隊と
グルーシー少将、ロジェ准将の名前が挙げられていた。また、この報告の際に、第Ⅰ軍団の歩兵
2ヶ師団がビエジュンに集結するのは24日になると書いており、その後の命令を待って25,26日は
待機したと思われる。ナポレオンは、この2日間の待機を特に非難しなかったので、プロシア軍と
ロシア軍の合流を阻止した事で十分と判断したのかもしれない。
余談だが1815年の戦役でリニーの戦いの後、プロシア軍追撃任務を任されたのがグルーシー元帥で、
指揮下に歩兵2ヶ軍団(約27000人)、騎兵2ヶ軍団(約4000騎)を配属された。この時は、プロシア軍の
退却方向が良く分からずに、イギリス軍とプロシア軍の合流阻止に失敗した。詳細は、いつもお世話になっている
”祖国は危機にあり”さんの下記WEBページを参照。
ナポレオンは1806年戦役の追撃が記憶に残り、1815年の時も上手く行くと期待したのかもしれない。