ウルム戦役が終了し、フランス軍はオーストリアの首都ウィーンに向かって
進撃する事になった。10月25日時点の両軍の配置は以下の通り。
戦力的に不利な為、ウィーンの防衛を諦めたロシア・オーストリア連合軍(クツーゾフ大将指揮)は
増援部隊の第2ロシア軍と合流する為に北東方向に後退した。フランス軍は、ウィーン占領を目指す
と共にロシア軍を補足するために進撃した。ロシア軍の追撃はドナウ川南岸がミュラ・ランヌ元帥、
北岸がモルティエ元帥(新規に第8軍団を編成*1)の任務であった。しかし、モルティエ元帥は
11月11日にデュルンシュタインの戦いでロシア軍の罠にかかり負けそうになった。その後は、
ミュラ・ランヌ元帥が追跡してロシア軍後衛と11月16日にシェンカーバンの戦いがあったが、
上手く逃げられてしまった。
*1 ドナウ川の拠点に残っていた各軍団所属の師団などから再編成された。
第6軍団からデュポン(Dupont)少将の師団
第5軍団からギャザン(Gazan)少将の師団
第2軍団からデュモショー(Dumonceau)中将のオランダ師団 *2
予備騎兵軍団からクレン(Klein)少将の竜騎兵師団 *2
*2 デュルンシュタインの戦いには不参加
ベルナドットの第1軍団は、下図のように進軍して11月15,16日にドナウ川を苦労して渡った。
ナポレオンは、14日に渡河できれば上記のロシア軍を補足できたかもしれないと非難した。
これに対して、ベルナドットは手紙を書いて嵐に巻き込まれた事などが原因であり、出来る事は
全てしたと答弁した。
アウステルリッツ会戦には開戦前夜に2ヶ師団(リボー少将、ドルエ少将の師団)を率いて到着した。
<個人的な感想>
ドナウ渡河の遅れに対してナポレオンの不当な非難とベルナドットの反論は、これからも
同様な事が起きるので、その始まりである。