ベルナドットは、監視軍司令官の辞任後ジンマーン(Gimmern:下図)にある山荘(副官メゾン大佐の
義父が保有)にて約1.5ヶ月休養し、1799年5月末にパリに帰って来た。
その間のフランス政治情勢は以下のようなものであった。
ルーベルに代わって総裁になったシエイエス(Sieyes)は、バラスと手を組んで、他の3人の
総裁(ラ・ルヴェリエール、メラン、トレイラ)を排除しようとしていた。その為には、軍の協力が
必要であり、バラスはベルナドットに指揮(パリに本部のある第17師団)を打診した。
しかし、ベルナドットは断り、代わりにジュベールが受けた。結局、軍隊は発砲することもなく
威嚇だけで充分であった。6月18日(プレリアール30日)までに3人の解任を議会に認めさせる事に成功した。
代わってゴイエ(Gohier)、ムーラン(Moulins)、デュコ(Ducos)の3人が総裁になり、
実質はシエイエスとバラスが総裁政府の実権を握った。
<個人的な感想>
約2年前のフリュクティドール18日のクーデターの時のように、バラスは初めにベルナドットに
クーデター部隊の指揮を打診して断られている。バラスは、かなりベルナドットを信頼している
ように思われる。また、ベルナドットは、軍の介入で政治情勢を変える事を嫌っているようである。
少なくとも政治に踏み込んで自分の立場を強化しようとする野心はない。2度も機会があったのに
2度も断るのは、以前にベルナドットの応援演説拒否で記載したように、軍が政治に関わるのは
憲法違反であると本気で思っているのかもしれない。
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