ウィーンからの退去

 皇帝はコロレド(Colloredo)伯爵を使者に送って返事をしてきた。

1)今回の事件に遺憾の意を表明する。

2)事態の鎮静化を命じた。

3)大使が留まる事を希望する。

4)事件の調査を約束する。

5)大使が心配している2国間の相互理解の維持に努める事を保証する。

 

ベルナドットは、それに対して次の二者択一を迫った。

1)十分な補償と三色旗の再掲揚。

2)ベルナドットの退去承認。

結局、夕方には退去の承認が届いた。

 

 オーストリア側からは、危険な事態になるのを避けるために、夜に静かに退去

して欲しいとの要望があった。

しかし、ベルナドットは、翌日の1798/4/15昼に堂々と去ると宣言した。

翌日、ベルナドット達は、革命のシンボルである三色帽子飾りを付けて出発した。

オーストリア政府は、騎兵を護衛に付けると共に、街の通りには歩兵を配置して

騒乱を予防した。

外務大臣のツゥグートは辞任し、ラシュタット会議の全権大使であった

コベンッェル伯爵が後任に選ばれた。

 

 三色旗事件があったフランス大使館の通りには、Fahnengasse(旗通り)の

名前が付いて今も残っている。

Fahnengasse

<個人的感想>

 結局、オーストリア帝国としては、三色旗を帝国の人間に掲げさせる訳にいかないので、

退去を承認するしか道はなかった。ベルナドットも、十分承知の上での要求であり、

さっさと帰国したかったと思われる。

夜逃げみたいに去る訳にもいかないので、白昼の出発も納得。結局、オーストリア側は、

フランスの思惑に沿って引っ掻き回されたような感じである。

 

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