総裁政府が何もしないので、ベルナドットは、ラシュタット会議に出席している
オーストリア全権大使のコベンッェル(Cobenzl)伯爵にウィーン駐在フランス大使任命を
知らせた。彼は1798/1/21にベルナドットからの手紙で任命を知り、直ちにオーストリア政府に報告した。
ベルナドットとはイタリアで個人的に知り合った事もあり、次の内容を報告している。
”ベルナドットは、兵士上がりの将軍であるが、適任であり礼儀正しい。”
オーストリア政府は、伯爵経由でフランス政府に大使任命を抗議した。
理由は、今は時期が良くない事(*1)、事前協議なしに任命するのは慣例に反する事である。
しかし、オーストリアの抗議がフランス政府に届く前にベルナドットは1798/2/8ウィーンに到着した。
(フランス政府からは、早く行けと言われていたので)
国境での検問には、赴任を妨害するのは戦争を招くと言って通過している。
(*1)ラシュタット会議で戦争終結の交渉が始まっている事を指すと思われる。
ベルナドットは、随行員のヴィレ・フォヴィル秘書をオーストリア外務大臣ツゥグート(Thugut)に
送って到着を知らせた。オーストリア側は予想外の到着で仰天したらしい。
<個人的感想>
フランス側の予想通りに外交的な奇襲に成功し、オーストリア側は混乱したのは当然かもしれない。
従来の慣習に縛られていたので、いきなり大使がやって来て対応に困ったと思われる。
一方、ベルティエ指揮のフランス軍は、ベルナドットのウィーン到着2日後の1798/2/10にローマに
進攻し、2/15にはローマ共和国の成立を宣言している。ベルナドット大使着任の陽動作戦は、
成功だったと思う。この辺りの策略はナポレオンが言い出した事だが、さすがである。
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