ベルナドットのウィーン大使任命

 ナポレオンが、ベルナドットのイタリア方面軍司令官任命撤回を

画策している中で、1797/12/28に発生したローマ暴動の知らせが届いた。

ローマ大使は、ナポレオンの兄ジョゼフであり、暴動の中でフランスの

デュフォ(Duphot)将軍(*1)(*2)が殺された。

(*1)ローマに居る共和主義者が教皇に対して反抗し、鎮圧しようとしたローマ教皇軍が

フランス大使館近くで発砲した際に、流れ弾がデュフォ将軍に当たった。

(*2)ジョセフの義理の妹でナポレオンの元婚約者デジレ・クラリーの婚約者であった。

 

 

この機に乗じて、ナポレオンはベルナドットをウィーン大使に推薦し、

それによりイタリア方面軍司令官の任命を撤回させようとした。

大使の任命理由として、ナポレオンは次の点を列挙した。

1)彼は愛想が良く、人を引き付ける力があり、賢さとずる賢さがあり、外交官に向いている。

2)ローマ暴動の緊急事態においては、軍事的な名声を持つ将軍をウィーンに派遣するのが

絶対的に必要である。それには、ベルナドットが適任である。

3)フランス共和国の大使として平民出の将軍を傲慢で貴族的なオーストリア政府に送り込むのは、

総裁政府にとって勝利である。

 

結局、総裁政府はベルナドットをウィーン大使に任命した。

ベルナドットは、イタリア方面軍司令官として赴任する途中で、この大使任命を知らされた。

この知らせは、ミラノでベルティエから受けた。ベルティエは、状況が緊迫しており、直ちに

ウィーンに行き重要な任務を果たす必要があると述べた。

ベルナドットは、不本意であり、また疑いを持ったが、結局承諾した。

 

 ローマ教皇軍によるデュフォ将軍殺害を口実に、ベルティエ率いるフランス軍がローマ教皇領に

進攻・占領し、ローマ共和国(フランスの衛星国)とした。

 

<個人的感想>

 ナポレオンの機敏な行動には恐れ入る。ローマ暴動はオーストリア帝国に直接関係が

ないのにも関わらず、口実にしてベルナドットのイタリア方面軍司令官を阻止した。

政府としても、ローマ暴動に対して軍事行動が必要と判断し、それにはナポレオンの

影響力を考慮して、彼の意見を採用したと思われる。

 ベルナドットには無念な出来事であり、この事件がなければイタリア方面軍司令官として、

更に名声を得たように思われる。しかし、後のジュベールのように戦死するかもしれないし、

モローのようにナポレオンのライバルになり、追放される可能性もある。皮肉な事には、

この事件のお陰で、デジレ・クラリーは新しい伴侶を捜さなければならずに、結局は

ベルナドットと結婚する事になる。これは、長い目で見ると、ナポレオンに対する強力な盾を

ベルナドットが得た事になり、ナポレオンは彼に対して表立っては酷い扱いをできなくなった(*3)。

(*3)ナポレオンは、デジレ・クラリーとの婚約を自分の都合で一方的に破棄した経緯があり、

かなり負い目を感じていたと言われている。また、彼女の姉がナポレオンの兄ジョセフの

妻であることから、親戚の関係にもある。

 

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