<背景>
当時のフランス立法府は、上院に当たる元老会(定数250人)と下院に当たる五百人会
(定数500人)に分かれ、毎年1/3が改選された。1797年の五百人会選挙では王党派が
多数選ばれて、次回の選挙で過半数を取る可能性が生じた。更に五百人会の議長には、
共和派のジュールダン将軍ではなく、王党派のピシュグリュ将軍(Pichegru)が選ばれた。
5人の総裁も毎年1人改選され(五百人会が候補を出す)、1797年には共和派3人、
王党派2人になっており、これも次回の改選時に逆転する可能性が生じた。
共和派の総裁3人(バラス、ルーベル、ラ・ルヴェリエール)は、軍の力で王党派を追放しようと考え、
ナポレオンにも打診してきた。
<ナポレオンの命令>
ナポレオンは反対派を脅かし、共和派の3人の総裁を支援する為に、7月中旬にはイタリア方面軍の
各師団に政府に送る応援演説を書くように命じた。演説は、王党派を脅かし、軍事力の脅威を見せつける
為のものである。例えば、オージェローの演説は以下のようなものである。
”陰謀者共よ、震え上がるが良い。アディジェ川やライン川からセーヌ川まで1跨ぎに過ぎない。
お前達の悪行は数限りない。我々は銃剣を以て報いるであろう。”
<ベルナドットの拒否>
オージェローの他に、マッセナ、セリエ、ジュベールも命令に応じて演説を作って
ナポレオンに提出した。しかし、ベルナドットは、これを断わり、次のように回答した。
このような事は憲法違反であり、秩序に反する。また、方面軍司令官には、このような
命令を出す権限はないと考える。
それに対してナポレオンは、次のように脅かした。
この拒否は、”将軍達の間に不和があり、共和国の敵は首都の外にも居る”と見なされるであろう。
結局、妥協したベルナドットは演説を作ったが、他の将軍と異なり穏当なものにして、
直接政府に提出し、ナポレオンには写しを送った。
”反革命の噂が私の師団の中にも広がっています。それは余り信用できません。しかし、
それが事実であり、法と市民の守護者である政府に陰謀者達が手を掛けようとしているならば、
国民の自立に仕える武器と共和主義者の密集隊を率いる指揮官が存在する事を保証します。
「国家と自由の敵は消えた方が良い」との要望を示すだけで、この支援は得られます。”
<個人的感想>
ベルナドットは扱い難い人物とナポレオンは思ったのではないだろうか。しかも、
ナポレオンの子分でない事を明確にする為、演説はナポレオンではなく政府に
直接送る所がなんともにくい・・・。
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