レオーベンの和約が成立し、イタリア方面軍はオーストリア領を去る事になった。
ナポレオンの命令により、ベルナドット師団とマッセナ師団はリュブリャナ経由で
移動する事になったが、常にベルナドット師団が先頭でマッセナ師団が続く事になった。
これも、マッセナ師団の反発を買って、両方の反目は更に深くなった。
そんな時に、リュブリャナで以下の騒動が起こった。その時、ベルナドットは先行して
トリエステに行っており、代理はサラザン大佐、マッセナも和約の内容を持参してパリに
向かっており、代理はブリュヌ准将であった。
1)決闘
ビリヤードをプレイしていたマッセナ師団のデュフォが、相手を”シトワイヤン”と呼んだのに対して、
相手のベルナドット師団(*1)の人間(名前は不明)は”ムッシュ”と呼び返した。
フランス革命では、ブルジョワ的な”ムッシュ”より市民的な”シトワイヤン”が一般的だった
こともあり、デュフォは”シトワイヤン”を使うように促したが、相手が拒否した為に口論になり、
最後は決闘を行う事になった。しかし、着ていた服からは階級が分からなかったが、その時になって
デュフォは准将、相手は中尉と階級が違うので、決闘が成立しなかった。
しかし、同じ階級のマッセナ師団の中尉が代わって行われ、マッセナ師団の中尉は胸を
刺されて死亡した。この時には、両方の師団の将校と兵士が多数立ち会っていた。
(*1)第19猟騎兵連隊。
2)乱闘
上記の決闘は、あっという間に両師団の将校・兵士に広まった。そこで、マッセナ師団長
代理ブリュヌ准将は、ベルナドット師団長代理のサラザン大佐を呼んで、”ムッシュ”の
使用を禁止して”シトワイヤン”を使うように師団に命令せよと要求した。しかし、サラザン大佐は、
ベルナドットが難色を示す事は分かっており、また、兵士達は言う事を聞かないとの理由で
拒否した。その会談中に両師団の兵士達(*2)が乱闘を起こしているとの連絡が入り、2人で
止めたが、死者は約50人、負傷者は約300人(*3)の大事件になった。
(*2)マッセナ師団は第32半旅団、ベルナドット師団は第30半旅団。
(*3)約200人が第32半旅団、約100人が第30半旅団。
3)報告
ブリュヌ准将は、ティエボー大尉をナポレオンの下に送って報告した。一方のサラザン大佐は、
自分でトリエステに向かいベルナドットに直接報告した。ベルナドットは、サラザン大佐の行動を
承認して、”もし、ブリュヌ准将の要求に従っていたら、君を師団から追放したところだ”と言った
との事(サラザン准将の回想録)。ナポレオンは、この件は不問にし、両師団がライバル意識を
持つ事を推奨したらしい。
4)関連情報
祖国は危機にあり 関連blogさんにも、同じ話題があるので参考にさせて頂きました。
上記の内容は、Bernadotte; the first phase, 1763-1799(D. Barton)のp220から222と
Royal Military Panorama, Or, Officers’ Companionからサラザン准将の回想録p327を
参考に記載しています。
<個人的感想>
ベルナドット師団がミラノに到着した時(デュプイ大佐の紳士発言と逮捕)に始まったイタリア
方面軍の兵士とサンブル・エ・ミューズ軍兵士の反目が頂点に達した事件と思う。それまでに、
お互いの違い、オーストリア全権大使の差別、行軍の順番などでマッセナ師団の兵士達の
妬み・蔑視が累積された結果で、いつかは来る日であったと思う。なお、負傷者の数で
マッセナ師団の方がベルナドット師団の2倍になっている点は、意外である。荒くれ者より
紳士の方が強い事になるが、それよりも規律の強い方が戦闘力が高い事を示すと思う。
ナポレオンは、両師団の融和を図るよりも、ライバル意識を煽った方が士気が高まり、
戦場で有効になると判断したと思われる。この辺も、ナポレオンの非情な面が伺われる。
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