9/18から19もベルナドットとマルソー師団は側衛を続けて、9/19には
アルテンキルヒェンに到着した。ここでマルソーは狙撃されて重傷を負う。
駆けつけて来たベルナドットと次のような会話をした。
マルソー:友よ、行ってくれ。他人の失敗の為に死ぬようだ。(*1)
もう会うことはないだろう。
しかし、死ぬ前に私の部隊が混乱して退却するのを見たくない。
それを考えるだけで死にそうだ。
ベルナドット:友よ、そんなことはない。そんな無念は持たない事だ。
君が見ている限り、兵士達は勇敢に戦う。安心してくれ。
退却は秩序だって行われている。
(*1)この意味が分かり難い。たぶん、マルソー師団の西側にいたケステルベル将軍の
事を指すと思われる。彼は北方軍から派遣されてマルソー師団の西側を防衛していたが、
リンブルクから西8kmのディ-ツでオーストリア軍が渡河したとの情報を受けた際に、
パニックになり指揮下の師団を連れてノイヴィート方面に勝手に退却してしまった。
その為、マルソー師団の西側が”がら空き”になり、結果としてマルソー・ベルナドット師団が
側衛となりサンブル・エ・ミューズ軍が後退するきっかけを作った。
重傷で動かせなかったマルソーは、戦場に残りオーストリア軍の手当を受けたが、
21日に死亡。1769年生まれで、ナポレオンやネイと同じ歳で、この時27歳の若さであった。
カール大公は、遺体を騎兵に護衛させてノイヴィートまで運び23日にフランス軍に渡し、
葬儀の日を確認させたとの事。フランス軍はノイヴィートから南に20kmにあるコブレンツに
埋葬し、葬儀の際にはフランス・オーストリア軍の両方から弔意の大砲が撃たれた。
今もコブレンツにある墓を次に示す。
<後日談>
1)ケステルベル将軍は、その後に解任されて退役となった。
2)後にコブレンツに駐留して司令部を置いたベルナドットは、骨壺から遺灰の
一部を取り出し、姉のエミリアに送ったとの事。
<個人的感想>
オーストリア軍が示した敬意には、感心する。それほどまで、敵味方に感銘を与えた
将軍は珍しいと思う。
<リンク>