ベルナドットとジュールダンの本隊は、8/27にフォルヒハイムで合流したが、
ベルナドットは、すぐに退却路の安全確保の為に、再び単独任務を受けた。
8/28にはバンベルクに到着。ここからブルクエーブラハにて援軍と共に
オーストリア軍を駆逐する筈が、連携のミスで単独で交戦する。
戦力的に劣勢な為にバンベルクに後退し、そこからシュヴァインフルトに
向かい8/31に到着。ベルナドットは、この間の戦闘で頭部に負傷。
サンブル・エ・ミューズ軍では、この期間にジュールダンとクレベールの不和が一気に
表面化した。ジュールダンは、ブルクエーブラハの連携ミスでクレベールを責めた。
一方のクレベールは、この戦役が不利な状況になったのはジュールダンの判断ミスと
公言するなど、かなり険悪になった。
両者の関係が決定的になったのは、9/1にシュヴァインフルトで開かれた作戦会議であった。
ジュールダンは、ヴュルツブルクでオーストリア軍と交戦する方針を出したが、クレベールを
先頭に師団長のベルナドット、コロー、シャンピオネとジュールダンの参謀長エルヌフが反対した。
クレベールの意見は、”敵が分散している時に攻撃しないで、敵が合体している時に攻撃
に戻るのは愚かである”。(カール大公とヴァルテンスレーベン将軍の部隊が合流する前と
後のこと)
しかし、この攻撃案は派遣議員のジュベール(実質的には総裁政府から)の要求であり、
断り切れないジュールダンは攻撃を決定した。反発した3人は従軍を拒否した。その理由は、
クレベール : シュヴァインフルトに残る部隊を指揮する為。
ベルナドット : 頭部の負傷が悪化した為。代わってシモン准将が師団を指揮。
コロー : 病気の為。
いずれも口実で実質的には反抗との事。詳しくは祖国は危機にあり 関連blogさんを参照。
結果として9/3にヴュルツブルクの戦いが行われて、フランス軍は敗北した。その後、
ラーン川以北に後退する事になる。
コローは病気の理由で解任されたが、クレベールとベルナドットは”お咎めなし”。
<個人的感想>
ジュールダンは、1794年に政府からの実行不可能な命令を拒否して逮捕、あやうく
処刑されそうになった事があり、今回断れなかったのはやむなしと思う・・・。
クレベールとベルナドットを厳しく罰しなかったのは、2人が有能で今後も必要な事も
あるが、内心はヴュルツブルク攻撃が無理な事を分かっていた為と、彼の寛容な人柄の
為と思われる。
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