後退を始めたフランス軍は、左翼のクレベール部隊はデュッセルドルフで、
中央と右翼はノイヴィートでライン川を渡るように移動した。しかし、混乱が
あったようで、後衛を任されたベルナドットは、6月17日に次の手紙を書いて
ジュールダンに次の行動予定を催促している。
”閣下、できるだけ早く命令をください。率直に言って、軽歩兵部隊をまだ最前線に
残しているので心配です。かれらは広範囲に散開しており、捜して呼び集めるには
私の参謀士官全員が必要になります。
側衛部隊を指揮しているメゾン大尉(*1)は、5時までナッサウに止まっており、
敵がナッサウで橋を完成させたとの報告をよこしました。”
(*1)今回の戦役から師団に配属された将校で、後にベルナドットの参謀、副官、
参謀長になった人で、同じような職務を務めるジェラール中尉より2歳年上。
ジェラールより1年早い1829年には元帥になっている。
18日には中央と右翼はノイヴィートに着いたが、また橋が破壊されていた。
この点も昨年の秋季戦役と同じ。違うのは、味方のミスではなく、オーストリア軍が
筏を流して舟橋を破壊した為である(この辺はオーストリア軍に学習効果がある)。
橋の修理まで敵を抑える役目のベルナドットは奮闘した。その時の事をジュールダンは
回想録で書いている。
”ベルナドット将軍は、中央と右翼の全騎兵と第30半旅団を指揮して後衛を任されていた。
橋が修理されるまでの間、砲兵に援護されたオーストリア軍騎兵に近接されながらも、
後衛部隊は敵を寄せ付けずに戦い、最後は1兵も失うことなく後退できた。
その冷静さと部隊機動の精妙さには皆が感嘆した。”
<個人的感想>
ジュールダンが誉めているが、ベルナドットは騎兵の使い方も上手かったようだ。
中央と右翼の全騎兵の規模は、約8ヶ連隊(竜騎兵、猟騎兵、戦列騎兵など)で
約3600人らしい。
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