サンブル・エ・ミューズ軍の司令官であるジュールダンと実質的に作戦を仕切っていた
と言われるクレベールについて、経歴を少し調べて見た。
出来事 | クレベール 1753年生 | ジュールダン 1762年生 | ||
1777年 | 9月 | オーストリア軍に入隊 | ||
10月 | 少尉24歳 | |||
1779年 | 4月 | 中尉26歳 | ||
1783年 | 自発的退役 | |||
1789年 | 7月 | バスティーユ襲撃 | ||
1790年 | 国民志願兵大尉28歳 | |||
1791年 | 10月 | 北方軍大隊長中佐29歳 | ||
1792年 | ライン軍に入隊 | |||
1793年 | 4月 | マインツ要塞包囲 | マインツ守備隊准将40歳 | |
5月 | 北方軍准将31歳 | |||
7月 | マインツ要塞降伏 | 武装解除され帰国、ヴェンデ反乱鎮圧へ | 北方軍少将31歳 | |
9月 | アルデンヌ軍司令官 | |||
10月 | ショレの戦いの功績で少将40歳 | ワッチニーの戦いで勝利 | ||
1794年 | 1月 | 公安委員会により逮捕、ワッチニーの戦いの功績で処刑を免れ退役 | ||
5月 | モーゼル軍司令官として復帰 | |||
6月 | サンブル・エ・ミューズ軍に転属 | サンブル・エ・ミューズ軍司令官 |
クレベールはドイツ国境の町ストラスブールに生まれている。
<個人的感想>
クレベールがオーストリア軍の将校だった事は意外である。一方、ジュールダンは、
若くして順調に出世したが、実行不可能な命令を拒否したのが原因で逮捕された。
危うく処刑されそうになったので、これ以降は政府・派遣議員に対して反対できなくなったと思われる。
仕方がない事ではあるが、そういう面も含めて、軍事能力と年齢が上のクレベールが、ジュールダンに
従順ではなかったのは分かる気がする。
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